かいじゅうたちのいるところ

久々に映画を見に行った。Where the wild things are (かいじゅうたちのいるところ)だ。原作を読んだのは昔すぎてほとんど覚えていないけれど、モーリス・センダックの絵本にはなじみがあったので、どんなもんだろうと思ってみてみたのだ。評判が良かったのは知っていたけれど、想像以上に良かった。私の中ではポニョ以上だ。多分、ポニョは大人も楽しめるけど子供向け、この映画は子供も楽しめるけど大人向けなんじゃないかと思う。

見ていて涙が出そうになったシーンが沢山あって、私がまだ子供だったら泣いてただろうな、と思う。涙が出そうで出なかったのは、私がもう大人だからかもしれない。

この映画は子供の心理世界を描いたものなのだそうだ。だから理屈で物語を追おうとするとよく分からなくなる。むしろ話の展開の仕方は、子供のとき、一日中遊んでいたときの展開の仕方に似ている。論理的ではないけれど、辻褄はあっている。だから、子供の狂気というか、大人には分からない子供の世界を描いた映画とは全く違う。むしろ、子供の正気の世界なのだ。子供のころの本気の「遊び」の感じを思い出した。

また登場人物(怪獣?)の描き方がとても良くて、一人一人がとても魅力的だった。ある批評家によると、これらは子供の“原型”なのだそうだ。

日本では来年1月に公開されるようなので、年が明けたらみなさんぜひ。

Add comment 2009年11月5日

フェミニスト

kp料理ブログでやっている「一ヶ月間外食なし、買って来た物も食べない(食べるものは全部家でつくる)」チャレンジの方も落ち着いてきて、そろそろ本当に料理教室の準備も整えていこうという感じになってきた。

旦那は、母親が全く料理しない(彼女は目玉焼きも作れない。というか、彼女は家事を一切しないし、やったことがない)家で育ったので、奥さんが毎日料理するのは大変な偉業だと思っているようだ。彼は南米のブルジョワ育ちの上に、北米的なフェミニストな面もあるので、奥さんを家事でこき使うことへの違和感と罪悪感を隠せないでいる。端的に言えば、彼の頭には典型的な日本の主婦像みたいなのがない。彼の中で主婦という存在は、昔のアメリカ映画の中のものなのだ。

だから沢山手伝ってくれるし、気遣ってもくれ、オーバーに褒めてもくれる。私にすればとても気楽だ。これが妻の仕事は主婦として家事をこなし、家を守ること、と思っているような人だったら相当うっとをしいだろうと思う。

ところで、日本で「フェミニスト」というと、“女に甘い男性、女性を特に尊重する男性、女性を大切にする男性、女性をちやほやする男性”という感じで使われることが多い。日本語でこれとは別の(あるいは逆にすら思える)本来の意味でフェミニストという言葉が使われることはほとんどないのではないだろうか。むしろ、欧米的な意味での「フェミニスト」と呼ばれるような男の人は、日本の社会では“空気読めない”とか“気が利かない”と影で女性に言われるんだろうな。

例えば、友達の家のパーティーに行って、夜が遅くなって、帰れなくなった。男2人、女2人が残って友達の家に泊まることに。でもあてがわれた部屋にベッドは一つ、ベッドには二人がぎりぎり入る。残りの二人は床で寝るしかない。布団も寝袋もない。室内で野宿と同じだ。さて、この状況でどうする?

女二人がベッドで寝て、男達は床で寝る?

いやいや、フェミニストなら、男も女も関係ないから、じゃんけんで決めて負けた方が(何がなんでも)床で寝る。

5年ほど前、夫を含めた友達4人の間で実際にこういうことがあった。たまたま私はその場にいなかったのだけど、全員私の友達でもあるので、私と夫の間では典型的なフェミニスト談義の例として残っている。

夫とイタリア人の男の子、ペルー人の女の子、イタリア人の女の子の4人で、ジャンケンの結果女の子達が床で寝る事になった。確かにジャンケンで決めるのは公平だし、ジャンケンをすることで、形的には女の子の人権を尊重できる。女の子はかよわい、だから厚遇されるべき、ベッドで寝るべき、なんていうビクトリア時代のような考えは、男性は表には出すべきではない。

とはいえ、男達は表面的には欧米的なフェミニストだが、根はベネズエラ人とイタリア人だ。「全員が床で寝るならまだしも、女の子を床で寝かせて自分達がベッドで寝るなんてできない・・・」と困惑する。なんとか女性二人をなだめようとするが、この二人の女の子、「私たちはフェミニストなの。そういう“女だから”みたいな理論は断固として受け付けられない。なめんな、ボケ」とすごい剣幕だ。結局男性陣は、男女平等の下、自らのプライドを捨て、泣く泣く女性を床で寝かせるに至ったのだそうだ。

このような例はまだカワイイもんだが、いろいろ聞いているこの手のフェミニストの頑固な主張にはたまに「なんでそこまで?」と思うことがよくある。というのも、フェミニストにおいて、実質的に平等であることよりも、“男のプライド”を踏みにじることに重点が置かれているように見えることがよくあるからだ。勿論、先の例でも、結局は「女の子達がそれでいいって言ってるんだし、ジャンケンで決めたんだから、それでいいじゃない?」という話ではあるけれど、一方で、相手のプライドを傷つけてまで意地をはることもないのでは、という気もする。

あるいは、私みたいな、そんなのどっちでもよくない?という態度が、優しさや親切心という形で現れる男性の中の密かな女性蔑視を育むのだろうか?

などなど、フェミニズムについて夫婦間でたまに話合ったりする。でも最終的に「互いの苦労や労働をねぎらったり、褒めることを忘れなければ、基本的に私たちの間は男女差別主義的な関係でいいよね」ということで落ち着く。だから重い物は夫が持ち、私は彼のシャツにアイロンをかけ、料理を作るのだ。

6 comments 2009年11月2日

言葉への渇望

Ceci n'est pas une pipe.芸術作品の中で使われる言葉に関する番組がBBCのRadio4であり、これもまた面白かった。

Pictures that paint a thousand words

私にとって言葉(あるいは言語)は日常生活レベルにも根付いた重要な問題だ。それに最近は私自身言葉を使った作品にも取りかかっているので、余計に興味をひいた。

記事にもあるように、芸術(特に絵画)において、言葉が使用されるのは歴史的にはそれほど珍しいことではない。例えば中世の宗教画においては、言葉は絵と同じく宗教的な記号(暗号)の一部のように見える。聖人の口から言葉がマンガみたいにひょろひょろと出て来ている絵画はおなじみだ。

ルネッサンス以降はおそらく自然主義的な目的から言葉がイメージに溶け込んで現れてくることはあまりないかもしれないが、後に未来派は言葉を視覚効果の一部として沢山使ったし、シュルレアリストも言葉を使った。マグリットも記号論的な文脈から絵画を通じて言葉(言語)の問題に取り組んでいた。

それが20世紀前半になって抽象的な表現が芸術のメインストリームとなり、言葉は絵画から姿を消す。そして、ウォーホルなどポップアートによって再び言葉が絵画の画面上に現れる。コンセプチュアルアーティストも沢山言葉を使った。

そういえば、数年前にヴェドバ・マッツェイの一人が、彼らが言葉を使った作品を作る理由にポロックの呪縛から逃れるためと言っていたのを思い出す。考えてみれば、60年代生まれの芸術家に関わらず、私たちの世代もなお、ある種の抽象絵画の呪縛と無縁ではないのかもしれない。

では一体、芸術作品における言葉とは何なのか?文学作品とはどう違うのか?それは視覚イメージなのか、あるいは文学的意味をもつメッセージなのか、ということだ。
ジョン・バルダサーリはキャンバスに描いた文字は絵画なのかと聞かれて「キャンバスに描くことが絵を描くことだから、当然キャンバスに書いた文字も絵画だ」と言っている。
またサイ・トンブリーの場合も、文章を書くというよりは、むしろ自動筆記に近い感じで、結果的にそれは読まれるための言葉というよりも、絵画的イメージに近くなっている。

また書かれた言葉を読ませるのか、読ませないのか、という点も作品を制作する上では重要なポイントだ。知り合いの画家で文字を作品に入れる人がいるが、 彼の書く言葉は全く読めない。普段の字も判別不可能なので普段通りの字と言えばそうなのだが、画面では言葉の内容より流れるようなリズムの美しさがポイ ントになっている。サイ・トンブリーの自動筆記の要領で描かれた言葉が、その内容ではなく、線そのものが魅力なのと同じだ。

逆にコンセプチュアルアーティストやイタリアで盛んだったpoesia visiva(視覚的な詩)の一連の作品などでは、言葉の内容が重要だ。だから読めない筆記体ではダメで読みやすくなければならない。カリグラフィーの美しさは、そこでは求められない。その意味でも、ブルース・ナウマンのネオン作品や、コスースの作品は、ちゃんと読まれるようになっている。

しかし、いかに読まれるように作られているといえども、それは紙媒体に印刷されたもの(本や雑誌、新聞)とは違う。作品として展示されるわけだから、やはり「読む」ためというよりは、「見る」ためのものなのだという気がする。同じ展示でも、昔の小説家の手書き原稿を展示する場合とは全然違うのは確かだ。そうでなければ、ナウマンのネオンがチカチカしているはずがない。

となると、「芸術作品における言葉は、結局のところ、その内容で語るものではなく、イメージ(単に視覚的なイメージに止まらず、プラトン的な目に見えぬイメージも含めて)で語るものだ」と考えるのべきなのか。

リチャード・ロングはインタビューで彼の作品における言葉は文学的な言葉ではなく、俳句に近い、何かを言い当てるような正確で端的なものなのだと言っていた。ここでも芸術作品における言葉が、文学作品の言葉とは違う質の言葉ということは明らかだ。だけど、アーティストが意識的に文学とは違う方法で言葉を選んでいることを考えると、ただの視覚的なイメージに収めてしまうのは、やっぱり違う気もする。

おそらく、芸術作品における言葉の問題を難しくしているのは、言葉が単なるメッセージの役割を越えて機能するからだろう。芸術作品における言葉は、無意味でもナンセンスでも良いし、未来派の絵のように、“特殊効果”ともなりうる。

少し考え始めると、あまりに問題が複雑で自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。

私自身がどのような言葉を扱っているかと言うと、基本はウォールドローイングや紙の作品と同じだ。自発的でなく、受け身で、感情表現から離れた言葉を探している。私は間接的にはメッセージを発するけれど、直接は言葉を発しない。誰かが発した平凡な没個性的なメッセージを私がそっくりそのまま受け止めて、他の人にパスする感じだ。そういう無味乾燥な言葉のみならず、酢鳥みたいな人口無脳から出てくる文脈には沿っていても意味のない言葉にも最近は興味を持っている。

芸術はコミュニケーションだと誰かが言ってた。でも私は今日の世界におけるコミュニケーション自体がどんなものかよく分からなくなってきているし、言葉を使うにしても、言葉が何を伝えられるのか、または伝えられないかすらよく分からなくなってきている。だから作品を通じて私ができるのは、ネオンで言葉をチカチカさせて見る人に一方的に押し付けることでも、判読不可能な書き方で言葉の持つ意味をうやむやにしてしまうのでも、カッコ良いバランスで文字を画面に入れてみるのでもなくて、身の回りにある文章を、小学校で習うような“読みやすい”字でただ書き写しながら、むやみに言葉を消費することだけだ。そしてその無駄な行為こそが、なんだかんだで妙にリアルだったりする。

2 comments 2009年10月31日

なぜ人は芸術作品を破壊するのか

最近、面白い番組をBBCのラジオ4でいくつか聞いた。その一つが芸術に対する攻撃について。なぜ人は芸術作品を破壊するのか?BBC Radio4で各30分間で二回に分けて番組があり、一回目はあと5日間は視聴可能で(→ここ)、二回目は11月3日に放送予定。一回目では政治、宗教的な動機による破壊行動について、次回は現代美術における破壊活動について。

Destroying art for art’s sake

人は作られた像(イメージ)を賞賛し、愛でることができると同時に、嫉妬したり、憎んだりすることもできる。タリバンに破壊されたバーミヤンの仏像などの例は、人間の複雑な心境や考え、人道的な問題から宗教的な問題が入り交じって、複雑な状況を作り出しているという点では典型的な偶像破壊の例だろう。

また宗教改革やいわゆる偶像破壊行動に見られる破壊では、目、口、耳といった顔の部分が破壊の対象になるのだそうだ。それは「黙らせる」という意味があるのだと言う。

ただ、像(イメージ)の破壊、特に芸術作品の破壊について考える場合、このイメージが必ずしも具象画や彫刻といった具体的なものである必要はないというのが興味深い。例えばモンドリアンの作品にキスした女性の例や、マレーヴィチの白い作品にドルマークを落書きした男性の例などがそうだ。マレーヴィチに関しては、スターリンの元でいかに彼が苦しんだかを考えると、ドルマークの落書きはあまりに酷だという気がする。モンドリアンに関しては、作品によっては、その絵の表面がすごくザラザラしていて、特に木のパネルみたいなのを使ったものに関しては、表面がやけに毛羽立っているという印象を受けたので、絵にキスして唇に刺がささったりしなかったのだろうか、と思う。私はどうせキスするならベルニーニの彫刻みたいなつるんとしたのがいい。

今回分かったのは、この手の破壊行動は衝動的で過激な狂った行為であるよりは、もっと静かで計画的なものだということだ。芸術活動の破壊というと、感情的な行為と思われがちで、「美しいもの、貴重なものを破壊するなどなんて野蛮なんだ」と多くの人は直感的に考える。だけど、その実、芸術作品の破壊というのは、とても野蛮とは逆の、理性的かつ政治的な行為で破壊活動に伴う熱狂すらも暗に計算に入っているという気がする。なんというか、何をもってして理性というかは問題だが、人間の考えるという行為なくして、何かを破壊することは難しいのかもしれない。

2 comments 2009年10月29日

新しい実験

最近、夫と二人でこんなブログ始めた。
Kanako’s Japanese kitchen

料理は文化とか科学、哲学や思想の問題と切り離せない。芸術にだって多分繋がっているはず、という予感もしつつ料理のレシピをブログで紹介している。

毎日更新している。料理ブログにも書いてあるけれど、これは一つの挑戦だ。とりあえず1ヶ月間は外食は一切しないで、家で何でも作って食べること。そして毎日の食事で食べている物のレシピをブログで公開する事。

やってみるとかなり大変。だけどこれは面白い。

実際には、芸術作品制作を進める資金稼ぎというのが一番の目的だったのだけど、いざやり始めるとなかなか奥が深いことに気づいた。前から気になっていたマイケル・ポーランが、最近は本当に流行っているみたいというのもある。
何よりも、料理と向き合っていると異文化間の違いが露骨に現れてきて、その些細でありながらどうにもならない問題と格闘したり、駆け引きしたりする感じがオモロイ。

なんだかんだで、政治経済専門のブロガーの夫と芸術家の妻でやってるので、内容は料理レシピのブログとはいえ、一筋縄ではいかない。例えばこのブログは素の私が書いているけれど、料理ブログではKanakoというスノビッシュな日本人主婦が“日本の家庭料理”というのを教えてくれるという設定だ。いろいろ考えて戦略的にブログを組んでいるので、今後の展開がどうなるか楽しみだ。

Add comment 2009年10月18日

ノータベーネ

notebook今日は、いつも行くノート屋さんに併設されているギャラリーで来年の春頃に展覧会をさせてもらえることが決まり、気分がだいぶ前向きだ。(papeterie nota bene)

このノート屋さんはモントリオールでは有名で(多分)、ノート好き、文具好きな人はみな知っている。ヨーロッパ各国からのノートや日本の文具もいろいろ揃えていて、他の文具屋にはない特別なノートが手に入る。私もこの街に越してきて以来しょっちゅう通っている。

私のフランス語単語ノートも、制作ノートもこの店で買った。
制作ノートは、身近で、かつ思考の場にもなるものなので、私はいつも慎重に選ぶ。イタリアにいた時はずっとオランダ製のものを使っていたけれど、カナダに来てノートを一新することにした。
その時に、店長らしき男性は「ノートを変えるっていうのは、生き方を変えるのと似ているからね」と言って、韓国製のすごく素敵な私の目的にぴったりのノートを薦めてくれた。
彼のノートに対する愛情と情熱がノート選びにも遺憾なく発揮されていて、ノート1冊を買うのにやけに感動したのが忘れられない。こんな特別な店だから、展覧会が決まって本当に嬉しい。

最近はギャラリーか、店か、レストランか、ということよりも、むしろその「場所」が自分にとってどういう意味を持つのか、ということが展示においては重要な気がしている。だからホワイトキューブみたな場所で展示するのはつまらないし、展示用パネルで仕切られた空間などは本当に寂しいと思う。展示空間よりも展示“場所”が大切というか。

その意味では、私は展覧会の経験が少ない割に、今まで良い場所に恵まれていたと思う。Imperfetto galelryにしろ、Il Postoにしろ、Gallery月夜と少年にしろ、そこではなければならない何かを秘めている特別な場所だった。そして、そういう場所では心に残る特別な展覧会ができて、展覧会の後は自分が何倍も成長したような気がしてきた。その場所とじっくり向かい合うことに意味があるのかもしれない。今後もそういう場所で展示ができればいいな。

何はともあれ、少し物事が動き始めているみたいなので、ほっとしている。

2 comments 2009年10月17日

秋風

how to become a canadian最近はすっかり秋模様で、夜なんかは本当に寒い。
こう寒いとすっかり活動もにぶってしまう。

昨日は参加しているSt. Henri Art Walkというイベントのオープニングだった。アートウォークという発想は面白いけれど、寒い中結構な距離を歩くのは結構ハードだった。

いろいろ回ってみた結果、私たちのアトリエがあるビルが一番面白い気がした。このビル内には全部で10近くのアトリエがあり、陶芸家、シガーボックスからギターを作る職人、油絵の画家、家具職人、ポップアーティスト、コンクリートの家具の職人などなどバラエティ豊富。普段は彼らが存在することは知っていたけれど、アトリエの中に入ってアーティストと話す機会はないので面白い。

私は新しいドローイングのプロジェクトと和紙の作品を一つ展示している。新しいドローイングは発想自体が地味なプロジェクトで、コンセプチュアルだし、意図的につまらない感じというか、アカデミックな感じにしているので、人の反応があまりよくないのは分かる。でも、あまりに反応が無なので少しへこむ。

作品として見せられる段階に至るまで何度も試行錯誤を重ねて、ようやく最終形体に辿り着いても、結果がこれなら仕方ない。

他の展示しているメンバーとの温度差にも少しがっかりだ。彼女達はまだ若いせいか、ポストカードとか、アクセサリーとか、そいういうオマケばかり頑張っているのも、ちょっと違うと感じた。そういうことをやっていた時期は私もあるから雰囲気もノリも十分理解できるだけに複雑な気持ちだ。諦めずに気長に進むしかないのだろう。

2 comments 2009年10月16日

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モントリオール在住
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