始まりの終わり
2009年7月8日
モントリオールに来て最初のマスキングテープのウォールドローイングを全て剥がした。びりびりと、容赦なく。作るのと違って、剥がすのは一瞬だ。
作品を剥がしてしまうのは、全然悲しくもなければ寂しくもない。むしろ、見慣れた作品がすっと消えて、真っ白な壁に戻るのは、気持ちが良く、せいせいするくらいだ。多分、この作品にとっては企画→制作→鑑賞→撤去というこの一連の流れそのものが重要な気がする。産み出されたものは、いつか死ななければならない。
とにかく最初の一歩は踏み出した。さらに次に進むには、まずこの「始まり」を終わらす必要がある。ドロイーグを剥がすのは、次に進むための儀式なのだ。
Entry Filed under: 日々の雑感, 芸術. タグ: ウォールドローイング.
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1. jiro | 2009年7月10日 at 07:52
産み出されたものは、いつか死ななければならない。
↑ 美しい言葉ですね。
映像の場合はその概念がないので、、
生む苦しみは感じても、「作品が死ぬ」というのを感じないことはどうなんだろう?
と思ってしまいました。
2. kanakonoda | 2009年7月11日 at 11:20
>Jiroさん
作品の死という問題は、文化人類学の本を読んでいて感じたことです。
現代の大量生産、大量消費の社会において、物のあり方は根本的に変わりました。かつては古くなって使えなくなった物、壊れた物は、そこで寿命を終えていた。でも今日では古くなった物、あるいは壊れた物は、全く同一の新しい物、つまりはコピーに取り替えられるようになりました。
この交換可能性によって、物は永遠と生きながらえることができるようになったと言えます。データのバックアップなども、コピーを作ることで延命することができますよね。
しかし死がなくなるということは、同時に生の意味も薄れるということではないでしょうか。
そうは言っても、今日の社会において、簡単に「ではコピーではなくオリジナルな作品を」みたいな考え方は時代錯誤もいいところですし、コピーとオリジナルの関係性について考えるのも、もうさすがにいいだろう、という感じがします。
そんな中で、私は作品のコピー/オリジナルではなく、作品そのものの生/死という問題は面白いテーマだと思っています。
ビデオ作品の死というテーマも、考えてみれば面白いかもしれませんね。
3. jiro | 2009年7月20日 at 23:09
なるほど。
江戸文化では全てがリサイクルされていたと聞きますが、たとえば着物は古着屋で解いた生地や裏地も売られたり、古布を買って自分で仕立て,本当にボロになるまで使い込み,使い物にならなくなったら雑巾に といった具合に。
江戸以前も基本リサイクルが当たり前であって、着物が雑巾に生まれ変わっていくような事は仏教の輪廻と通じるなと思います。
データのバックアップは生命のDNA的連鎖に近いかもしれないですね。
>作品そのものの生/死という問題は面白いテーマだと思っています。
粟津潔というグラフィックデザイナーが「ピアノ炎上」というフィルム作品を撮ったのですが、これはピアノに火を付けた状態で我慢の限界までピアニストは演奏を続けるという内容でした。
最後は野原にピアノの残骸が残るだけなのですが、ピアニストが音を生み出しながらピアノは同時進行的に死んでいくといった事なのかなとこのブログ読んでて思いました。
「ビデオ作品の死」というテーマであれば、このフィルムを上映中に燃やす というのも面白いかもしれませんねー。
4. kanakonoda | 2009年7月22日 at 09:24
>Jiroさん
リサイクルと仏教の輪廻、面白い組み合わせですね。
粟津潔さんの作品は知らなかったのですが、とても興味深い試みだと思いました。
フィルムを上映中に燃やすというのも、確かに面白そうです。
一度ぜひ試してみて下さい!