言葉への渇望
2009年10月31日
芸術作品の中で使われる言葉に関する番組がBBCのRadio4であり、これもまた面白かった。
Pictures that paint a thousand words
私にとって言葉(あるいは言語)は日常生活レベルにも根付いた重要な問題だ。それに最近は私自身言葉を使った作品にも取りかかっているので、余計に興味をひいた。
記事にもあるように、芸術(特に絵画)において、言葉が使用されるのは歴史的にはそれほど珍しいことではない。例えば中世の宗教画においては、言葉は絵と同じく宗教的な記号(暗号)の一部のように見える。聖人の口から言葉がマンガみたいにひょろひょろと出て来ている絵画はおなじみだ。
ルネッサンス以降はおそらく自然主義的な目的から言葉がイメージに溶け込んで現れてくることはあまりないかもしれないが、後に未来派は言葉を視覚効果の一部として沢山使ったし、シュルレアリストも言葉を使った。マグリットも記号論的な文脈から絵画を通じて言葉(言語)の問題に取り組んでいた。
それが20世紀前半になって抽象的な表現が芸術のメインストリームとなり、言葉は絵画から姿を消す。そして、ウォーホルなどポップアートによって再び言葉が絵画の画面上に現れる。コンセプチュアルアーティストも沢山言葉を使った。
そういえば、数年前にヴェドバ・マッツェイの一人が、彼らが言葉を使った作品を作る理由にポロックの呪縛から逃れるためと言っていたのを思い出す。考えてみれば、60年代生まれの芸術家に関わらず、私たちの世代もなお、ある種の抽象絵画の呪縛と無縁ではないのかもしれない。
では一体、芸術作品における言葉とは何なのか?文学作品とはどう違うのか?それは視覚イメージなのか、あるいは文学的意味をもつメッセージなのか、ということだ。
ジョン・バルダサーリはキャンバスに描いた文字は絵画なのかと聞かれて「キャンバスに描くことが絵を描くことだから、当然キャンバスに書いた文字も絵画だ」と言っている。
またサイ・トンブリーの場合も、文章を書くというよりは、むしろ自動筆記に近い感じで、結果的にそれは読まれるための言葉というよりも、絵画的イメージに近くなっている。
また書かれた言葉を読ませるのか、読ませないのか、という点も作品を制作する上では重要なポイントだ。知り合いの画家で文字を作品に入れる人がいるが、 彼の書く言葉は全く読めない。普段の字も判別不可能なので普段通りの字と言えばそうなのだが、画面では言葉の内容より流れるようなリズムの美しさがポイ ントになっている。サイ・トンブリーの自動筆記の要領で描かれた言葉が、その内容ではなく、線そのものが魅力なのと同じだ。
逆にコンセプチュアルアーティストやイタリアで盛んだったpoesia visiva(視覚的な詩)の一連の作品などでは、言葉の内容が重要だ。だから読めない筆記体ではダメで読みやすくなければならない。カリグラフィーの美しさは、そこでは求められない。その意味でも、ブルース・ナウマンのネオン作品や、コスースの作品は、ちゃんと読まれるようになっている。
しかし、いかに読まれるように作られているといえども、それは紙媒体に印刷されたもの(本や雑誌、新聞)とは違う。作品として展示されるわけだから、やはり「読む」ためというよりは、「見る」ためのものなのだという気がする。同じ展示でも、昔の小説家の手書き原稿を展示する場合とは全然違うのは確かだ。そうでなければ、ナウマンのネオンがチカチカしているはずがない。
となると、「芸術作品における言葉は、結局のところ、その内容で語るものではなく、イメージ(単に視覚的なイメージに止まらず、プラトン的な目に見えぬイメージも含めて)で語るものだ」と考えるのべきなのか。
リチャード・ロングはインタビューで彼の作品における言葉は文学的な言葉ではなく、俳句に近い、何かを言い当てるような正確で端的なものなのだと言っていた。ここでも芸術作品における言葉が、文学作品の言葉とは違う質の言葉ということは明らかだ。だけど、アーティストが意識的に文学とは違う方法で言葉を選んでいることを考えると、ただの視覚的なイメージに収めてしまうのは、やっぱり違う気もする。
おそらく、芸術作品における言葉の問題を難しくしているのは、言葉が単なるメッセージの役割を越えて機能するからだろう。芸術作品における言葉は、無意味でもナンセンスでも良いし、未来派の絵のように、“特殊効果”ともなりうる。
少し考え始めると、あまりに問題が複雑で自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。
私自身がどのような言葉を扱っているかと言うと、基本はウォールドローイングや紙の作品と同じだ。自発的でなく、受け身で、感情表現から離れた言葉を探している。私は間接的にはメッセージを発するけれど、直接は言葉を発しない。誰かが発した平凡な没個性的なメッセージを私がそっくりそのまま受け止めて、他の人にパスする感じだ。そういう無味乾燥な言葉のみならず、酢鳥みたいな人口無脳から出てくる文脈には沿っていても意味のない言葉にも最近は興味を持っている。
芸術はコミュニケーションだと誰かが言ってた。でも私は今日の世界におけるコミュニケーション自体がどんなものかよく分からなくなってきているし、言葉を使うにしても、言葉が何を伝えられるのか、または伝えられないかすらよく分からなくなってきている。だから作品を通じて私ができるのは、ネオンで言葉をチカチカさせて見る人に一方的に押し付けることでも、判読不可能な書き方で言葉の持つ意味をうやむやにしてしまうのでも、カッコ良いバランスで文字を画面に入れてみるのでもなくて、身の回りにある文章を、小学校で習うような“読みやすい”字でただ書き写しながら、むやみに言葉を消費することだけだ。そしてその無駄な行為こそが、なんだかんだで妙にリアルだったりする。
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1. ちびちび | 2009年10月31日 at 20:27
芸術作品の中の文字、ということで
『暮らしの手帖』の名編集長だった花森安治の作品を思い出しました。
彼の作品の多くは、
『暮らしの手帖』の表紙になっているので、
nodakoさんが言及している「見る作品」とは
違うかもしれません。
でも、彼の作品におけるサインの入れ方については
とても興味があります。
作品によって、サインのスタイル、大きさ、どの文字を使うか、
はたまた解読可能不可能かも違っていて、
サインの意味と合わせて考えると面白いなあ、
と思っていたところでした。
2. kanako | 2009年10月31日 at 22:30
>ちびちびさん
グラフィックにおける文字はウォーホルを始めとして多くの芸術家が影響を受けていますし、アーティストが雑誌などを創刊してデザインをやっていた例も沢山あるので、グラッフィックと文字と芸術作品の関係はどこかで繋がっている気がします。
それにしても花森安治のデザインは今見ても新鮮で素敵ですよね。